「春なんだから、桜でも見ながらのんびり帰りなさい」
「コロナ禍」という状態になって1年以上たった今、心や体の調子を崩す人が続出だそうである。
1年前に「1年もたてば収束してるだろう。半年とかじゃ難しそうだけど、1年もたてば何か先が見えてきているだろうから、それまでは」と、ずっと我慢して我慢してまじめにやってきた人が大半で、
そして実際1年たってみたら、先が見えるどころか、まったく闇の中。
政府が国民の上に立ち、全力を尽くしても打つ手がない、というならば別だが、どう見ても飲食店をいじめた以外には何もしていない。
「次の夏休みも家にいるのかな。」
「次のお正月も実家に帰れないのかな。」
「とりあえず、1年後」に最初の照準を合わせてきた人たちの心が一斉に折れた、という状態のようだ。
私のように帯状疱疹になる人も多いとのこと。
体に出る人、心に出る人、とにかく急増しているという。
昨日3週間ぶりに出社した私に、私のボスである会長が、帰り際の私にこう言った。
「春なんだから、桜でも見ながらのんびり帰りなさい」
午前中出社し、午後から在宅勤務のため、昼休み中に急いで帰宅しなければならない時だった。
その言葉で、まるで背骨でも抜けてしまったみたいに、ほへえええええっと気が抜けた。
ほへえええええっと口をあけたまま(マスクをしていたのでアホ面がバレなくて助かる)桜の木のある方を選んでゆっくりゆっくり歩いて帰った。
弱っていたんだ私は、とそこで初めて気が付いた。
優しい言葉をもらって、初めて気が付いた。
優しいって、凄いことだなあ!と、改めて思った。
会長の言葉を機に、色々なことを考えた。
一つ思ったのは、「会いたいね」とか「今度会おう!」とか「〇〇行こうよ!」みたいな言葉をかけてくれる人に癒されているということ。
それが具合的な予定やお誘いである必要はなくて、その楽しい思い付きの中に私がいることを想像してくれた、ということが嬉しいということだ。
こんなこと、コロナ禍でなければ考えなかっただろう。
私は子供のころから発信タイプなせいか、友人は受信タイプがまあまあ多い。
私は何でも言葉にして伝えたいタイプだが、友人は想いをあえて言葉にしないことを美徳とするような人が、まあまあ多い。
相性とはそういうものなのだろう。
でも、コロナ禍も長くなってくると、言葉にしないとわからないことが多い。
だいたい、昔から、私が適度なペースで友達を誘い、会う。
適度なペースで誘えば適度なペースで会えるから、そこに何も疑問は生まれない。
しかし、コロナ禍では、適度なペースで誘えなくってしまった。
そこで気付いたのである。こっちが誘わないと、むこうからは誘われない。
そりゃそうだ。ずっとそうやってきたのだ。
でも、誘う・誘われる以前に、会う会わない会えないね会いたいねの話すらしてくれないのだと。
ショックだった。
いや、別におかしくはない。発信タイプと受信タイプ。ずっとこうしてきたのだし。
でもさ、会いたくない?会いたくならない?私はめっちゃ会いたいけど。
「電車がだめなら徒歩や自転車で?」とか、
「換気が大事っていうなら、いっそ野外で?」とか、
「会話がヤバいっていうなら、目の前で顔見ながらLINEで話す?」とか。
「ねえ、今からコンビニでコーヒー買って、公園で離れて座って飲まない?」って言えばOKしてくれるかな?とか。
凄く色々考えて、すごく控えめにメールしたりしたけど、予定が合わなくて断られたりして。
でも、「じゃあほかの日でどう?」って言う勇気が残ってなかったり、相手からもそういう案は出なかったりして、そのまま時が過ぎた。
実はこういうことに、いちいち少しずつ傷ついていたんじゃないだろうか?
別に何をされたわけじゃないのに、過敏になって勝手に傷つく、それがコロナストレス。
心や体が変にもなるよ。
だから、声をかけてくれる人、あそぼーねって言ってくれる人、家にきてベランダで飲みませんかと言ってくれた人、本当に胸にしみてしみてすごかった。
(こっちの体調が悪くて断った時、いつもの何倍もきついほどだった。)
とまあ、こんな感じで、私はいつのまにか、言葉が少ない世界で弱っていたんだな。
弱っている自覚なんて全くなかったけど。
言葉を何よりも大事にしている私が、言葉が少ない世界で弱るのは当たり前なのに。
会長の優しい言葉で、全部がほどけた。
いやほんと、優しさって凄いし、言葉をかけるって本当に大事なこと。
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で、ここで推しの話をすることになるのだ。
私の推し(自担)は、A.B.C-Zの橋本良亮くんという、それはそれは優しいイケメンだ。
私はリアルでもバーチャルでも、多くを語らないポーカーフェイスのイケメンにばかり恋してきた。
勉強が出来て、穏やかで優しいんだけど何を考えているかわかりにくい、無自覚に人を振り回してしまうタイプばかり好きになった。
橋本君は真逆のタイプであった。
思ったことは言ってしまう、思ってることが顔に出る、そしてびっくりするほど漢字が読めない。
「シ」と「ツ」の書き分けが出来ない人を好きになったのは初めてである。
「ねえ!こっちを見てよ!そっち見ないで!俺だけを好きになって!」とむき出しで向かってくる、しかもビジュアルは歌舞伎町系。
苦手だったタイプである。
しかし、私はその、気持ちが顔や態度に出るところ、言いたいことは言葉にして伝えようとするところに、思いっきり落ちた。
そして、彼には太陽のようなわかりやすい優しさがあった。
掴み切れないものや察しても察しきれないものに、実は疲れていたのだろう。
コロナ禍の初期2020年4月に、橋本くんが更新したブログを紹介する。
「もう、
ウイルスの目を盗んで
どっかで橋本担と会いたい」(橋本担→橋本推しの人のこと)
ズキューンですよ。ずきゅーーーん。
今見るとより一層ずきゅーーんですよ。
会いたいって、言うのが大事。
会えなくても、会えないからこそ、会いたいって言うの本当に大事。
会えないことを前面に出すのではなく、会いたいことを前面に出すこと。
コンサートで、とかじゃなくて、「どっかで」ってところも最高。
物質の時代は終わり、心の時代が来るというが、本当にそれっぽいなと日々感じるのである。
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ちょっと、もう一回見て。
見ないとぶつよ。